記憶:とくにコオロギの場合

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 学習と記憶は移り変わる環境の中で動物が生き抜くために必要な脳の基本機能である。記憶は記銘、保持、固定、想起の4つの過程に分けられる。また記憶は保持時間の違いにより短期記憶、長期記憶などに分けることができる。コオロギなどの昆虫はニューロン数が比較的少ないわりに高度な学習や記憶能力を持っているので、学習や記憶のメカニズムの研究材料として適している。


記憶とは

 動物は外界から様々な情報を受け取っている。感覚器を通して入ってきた情報は、脳や中枢神経系において、過去の経験に伴い保存された情報と照らしあわされて処理され、その結果、適切な行動がひき起こされる。ここでいう過去の経験で保存された情報のことを「記憶」、新しい情報の受容と処理による行動の変化を「学習」と呼ぶ。

記憶の過程

 記憶の過程は記銘(encoding)、保持(maintenance)、固定(consolidation)、想起(recall)に分けることができる。記銘とは感覚器からの情報が符号化されて神経細胞のネットワークに入っていく過程である。保持とは記銘された情報が神経ネットワーク上で維持される過程のことである。固定とは一度作られた神経ネットワークが繰り返し活動することによって、ネットワーク内のシナプス結合数や形態が変化する過程で、後にふれる長期記憶形成の過程とも言える。想起とは外界(もしくは内的世界)からの刺激によってその神経ネットワークが興奮することで、記憶が再生される過程である。

記憶の成分

 時系列的にみると記憶は均一なものではなく、撹乱刺激や麻酔処理、薬物の投与、遺伝子操作などによっていくつかの成分に分けることができる。また、それらの記憶成分は保持時間の違いにより短期記憶、長期記憶などと呼ばれる。短期記憶は短時間(数秒から数十分)しか保持されないもので、長期記憶は忘却しない限り一生保持される記憶である。また両者の間を結ぶ数分から数時間の記憶を中期記憶と呼ぶ。一般的に、短期記憶はニューロンの持続的な電気的活動によるもの、中期記憶はニューロンのイオンチャネルのリン酸化による既存のシナプスの伝達効率の変化によるもの、長期記憶はタンパク質やmRNAの新規合成を必要としたイオンチャネルやシナプス小胞などの新規形成によるもの、と考えられている。

短期記憶

 学習直後の記憶は外からの撹乱に弱い。学習訓練の直後に電気ショックや低温麻酔などの刺激を与えると、学習した内容が記憶として保持されないことが様々な動物において報告されている。この麻酔感受性の短期記憶成分を実験的に抽出するには、動物に学習訓練を行い、その直後からいろいろなタイミングで短い時間の麻酔や撹乱刺激を施し、その後に記憶が保持されているかどうかを調べればよい。

 昆虫は記憶の成分について詳しく調べられている動物群である。ここではコオロギを例に挙げてみよう。コオロギでは、匂いを条件刺激(Conditioned Stimulus: CS)に、水を報酬の無条件刺激(Unconditioned Stimulus: US)に用いた古典的条件づけにより、連合学習が容易に成立することが知られている。例えば渇水状態のコオロギにペパーミントの匂い(CS)を嗅がせた後に水(US)を与えてやると、コオロギはこのCS-USの連合を学習し、ペパーミントの匂いへの嗜好性が上昇するようになる。このCS-USの学習訓練を1回だけ行った場合、訓練1時間後では高いスコアの記憶を示すが、1日後では記憶が完全に消失している。しかし、CS-USの学習訓練を間隔を空けて3回以上行った場合、少なくとも1週間以上保持される記憶が形成される。

 学習訓練の直後に麻酔処理をしたコオロギではその後の記憶テストで記憶の保持が全く見られなかったが、学習訓練から麻酔までの時間が長くなるにつれ徐々に記憶が保持されるようになり、学習訓練の20分後以降に麻酔した場合では記憶の阻害効果が全く見られなくなった。すなわち、コオロギでは麻酔感受性の短期記憶は学習直後に出現し、20分後には消失するといえる。

長期記憶

 タンパク質やmRNAの新規合成を必要とする長期記憶が学習訓練後、いつ出現するのかを調べるためには、薬物や遺伝子操作などでタンパク質の合成系を阻害した動物に学習訓練を行い、その後いろいろなタイミングで記憶のスコアをテストすればよい。例えばタンパク質合成阻害剤であるシクロヘキシミドを投与したコオロギは、4回の学習訓練の4時間後まで高いスコアの記憶を示していたが、時間と共に記憶の減衰が見られ、8時間後には無学習のレベルにまで落ちた。すなわち、コオロギではタンパク質合成依存性の長期記憶は訓練4時間後から出現し、8時間後にピークに達するといえる。

 脊椎動物・無脊椎動物を問わず、タンパク質合成系の上流で重要な役割を担っている様々な生体分子が明らかにされている。脊椎動物と無脊椎動物に共通の長期記憶形成に重要な生体分子には、一酸化窒素(NO)やプロテインキナーゼA (PKA)などがある。NOはNO合成酵素(NOS)によってアルギニンから作り出されるガス状のシグナル伝達物質である。NO産生細胞で作られたNOは拡散して、周囲の標的細胞において水溶性グアニル酸シクラーゼ(sGC)という酵素を活性化する。活性化されたsGCはサイクリックGMP (cGMP)を合成する。その後cGMPは、プロテインキナーゼG (PKG)やPKAを介したタンパク質のリン酸化、サイクリックヌクレオチド制御チャネル(CNGチャネル)を介した細胞内イオン濃度の制御、などの様々な生理活性を促すと考えられている。


松本幸久 (東京医科歯科大学)


(2017.12.01 更新)