長期記憶をつくる分子メカニズム

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動物は経験によって「学習」し,その行動を変化させます.また,学習を「記憶」として保持することで行動変化を持続させることが出来ます.特に,24時間以上続くような強い記憶は,「長期記憶」と呼ばれています.動物種や学習系によって,表現形である個体行動や必要な神経細胞は異なりますが,不思議なことに,長期記憶を作る「分子」メカニズムは種を越えてとてもよく似ていることが示されました.この章では,個体―細胞―分子といった生物学的な階層性を通した長期記憶を作る仕組みとともに,転写調節因子CREB1を含む「分子レベル」のメカニズムについて説明します.

学習・記憶という興味深いテーマについては,これまでにも様々な手法で研究が行われてきました.人間であれば,心理学実験のような「個体」に近いレベルの研究が可能です.これらの研究に重ねて,昆虫や軟体動物などの実験動物を用いることで「細胞」レベルから「分子」レベルのメカニズムが明らかになりました.

「個体レベル」~動物行動

 個体レベルの研究では,学習による動物行動の変化を観察できます.動物種に関わらず,一般的に長期記憶の形成には繰り返し学習が効果的であり,分散学習(spaced training)では長期記憶が成立しやすく,集中学習(massed training)では成立しにくいことが知られています.また,遺伝子発現,タンパク質合成を抑える薬を与えると,長期記憶は成立しません.さらに,これらの薬剤の効果は,学習のトレーニング中から直後数時間にしか見られません. まとめると,長期記憶ができるためには,1)新しい遺伝子発現,タンパク質合成が必要である,2)長期記憶が作られるための決まった時間枠が存在する,という法則がなりたちます.これらの法則は進化を通して保存されており,行動変化の基となる「分子」メカニズムを反映しているものでした.


「細胞レベル」~神経細胞・神経回路

 動物の行動は,脳・中枢神経系にふくまれる神経細胞の働きによってコントロールされています.神経細胞同士は「シナプス」とよばれる情報を伝達する部位でつながり,神経回路を作っています.長期記憶ができる時には,ある特定の神経細胞間のシナプスで,長期的な変化が起こると予想されています.

 アメフラシやモノアラガイなどの軟体動物は神経細胞サイズが大きく,細胞数も少ないため,行動にかかわる神経回路や,特定のシナプスの性質も調べやすいという利点があります.このため,単一神経細胞という単位で長期記憶形成に関係する神経メカニズムの研究が進みました. たとえばアメフラシのエラ引き込み学習では,水管への弱い刺激(CS: conditioned stimulus)の後に,尾部への強い電気刺激(US: unconditioned stimulus)を組み合わせてトレーニングをおこないます.学習前の動物は,CSに対して弱いエラ引き込み反応しか示しませんが,学習後はCSに対して強い引き込み反応を示すようになります.この学習行動にかかわる神経回路には,水管への刺激入力を受ける感覚神経細胞(SN: mechanoreceptor sensory neuron)と,尾部からの刺激入力を受ける介在神経細胞(IN: interneuron),エラ引き込みに働く運動神経細胞 (MN: motor neuron)が存在します(図A). これらの神経細胞だけを取り出して,培養皿の上でシナプスを形成させることもできます.また,INからの入力を神経伝達物質セロトニンに置きかえることで,さらに簡単に特定シナプスの性質を調べることが可能になりました.この培養細胞の実験系を使って,記憶の基となるシナプス伝達効率の変化を,SN-MN間のシナプス伝達効率の強化(シナプス促通)として再現することができました.

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 このような学習行動に対応した細胞レベルの実験系をもちいることで,長期記憶の形成に関わる分子メカニズムの研究も急速に進みました.

「分子レベル」~遺伝子・タンパク質

 アメフラシの培養細胞をつかった実験によって,長期記憶ではcAMP(cyclic AMP, 環状アデノシン一リン酸)による細胞内情報伝達経路が重要であることがわかりました(図B).cAMPは,PKA(タンパク質キナーゼA)を活性化して,遺伝子発現やタンパク質のリン酸化などにより細胞応答を調節する分子です. 短期記憶では,一時的なcAMP濃度上昇によるPKA活性化によって,主にタンパク質の修飾によるシナプス促通がおこります.これに対し,長期記憶ができる時には,PKAが長時間活性化することで,新しい遺伝子発現,タンパク質合成が起こります.その結果,シナプスを構成する分子や,シナプスの形が変わり,シナプス促通が長時間保たれます.

 同じような結果が,昆虫や哺乳類などの他の動物でも得られ,長期記憶ができる条件である1)新しい遺伝子発現・タンパク質合成は「シナプス構造の長期間にわたる変化」に必要な条件であり,1)決まった時間枠は「新しい遺伝子発現・タンパク質発現にかかる時間」であることが明らかになりました.

新しい遺伝子発現

 遺伝子発現は,転写調節因子というタンパク質の働きによって調節されます。長期記憶が形成される際には,CREB1(cAMP responsive element binding protein)という転写調節因子が重要であることがわかりました.CREB1は標的配列CRE(cAMP responsive element: TGACGTCA)に結合し,PKAによって活性化されることでRNAポリメラーゼなどと複合体を作って遺伝子を発現させます.

 また,CREB1による遺伝子発現には抑制性メカニズムもあります.CREB1同士は2量体を形成して働きます.これに対して,CREB2という分子は,CREB1と2量体を形成して,その機能を抑制するのです.さらにCREB1の短いアイソフォームも同じように2量体を形成することで抑制性に働くことが示されています.これらの転写調節因子CREB1およびCREB2を含む調節メカニズムは,哺乳類やショウジョウバエとも一致し,種間を通してよく保存されています.

 さらに,CREB1はcAMP,Ca2+などの複数の細胞内情報伝達経路による調節を受けるため,これらの経路を統合するスイッチのように働いています.また,ゲノムDNAの修飾などの要因も関係し,その調節メカニズムは複雑で精密にできています.

新しいタンパク質合成

 CREB1によって遺伝子発現が誘導される分子は複数あります.例えば,c-FosやC/EBP(CCAAT enhancer binding protein)などの最初期遺伝子と呼ばれる分子群は,それら自身も転写調節因子として働きます.最初期遺伝子群が発現することで,CREB1によって始まった遺伝子発現の流れは,標的となる遺伝子の幅を広げてさらに増幅されます.また,新しく発現した遺伝子とタンパク質によって,シナプスを構成する分子や形態も変化し,シナプス伝達効率の変化は長期にわたって持続するようになります.


 このような長期的なシナプス変化におけるCREB1の働きは,軟体動物,昆虫,哺乳類まで,動物種に関わらず共通のものでした.長期記憶の形成に関わる基本的な分子メカニズムは進化を通して保存されており,多くの動物種を用いた学習・記憶研究が今も展開されています.