性フェロモンを介した異性間コミュニケーション:ガ類の場合

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生物は環境中のさまざまな化学物質を情報源として利用している。このような化学物質を情報化学物質(セミオケミカル)と呼ぶ。これらの中で、動物の体内で生産され、体外へ分泌され、同種の他個体に一定の行動や生理的な変化を引き起こす物質をフェロモンと呼び、特に配偶行動に関与する物質を性フェロモンと呼ぶ。性フェロモンを介した異性間コミュニケーションは昆虫、特にガ類において顕著であり、オスのガはメスの放出する性フェロモンの匂いを手掛かりにメスを探し出し、交尾にいたる。ここでは、フェロモン研究のモデル生物であるカイコガを例として、オスのガが同種の性フェロモンを選択的に認識するしくみを述べる。

カイコガの性フェロモン交信系

多くのガ類昆虫のオスは雌の放出する性フェロモンを手掛かりとして、メスのもとへ定位する。一般にガ類の性フェロモンは複数成分から構成されており、種によってそれらの成分の化学構造や成分比が異なる。雄のガは種特異的なフェロモン成分とその成分比を認識することで同種の雌を探し出す。

一方で、カイコガでは単一のフェロモン成分によりメスへ定位するというシンプルな性フェロモン交信系を利用している。カイコガのオスはメスの腹部末端にあるフェロモン腺から放出されるボンビコール[ (E,Z)-10,12-hexadecadien-1-ol]を触角で検出すると、プログラム化された匂い源探索行動を発現しメスへ定位する(図1)。メスはボンビコールのアルデヒド体であるボンビカール[ (E,Z)-10,12-hexadecadien-1-al]も同時に放出するが、この物質にはオスの行動を解発する生理活性はなく、逆にボンビコールにより解発される行動を抑制する効果が報告されている。

このことから、カイコガのオスが構造の非常に類似した2つの物質を正確に識別していることがわかる。また、オスのボンビコールに対する行動発現の感度は非常に高く、わずか170分子のボンビコールの受容により行動が発現すると計算されている。このように、オスガのフェロモン認識の特徴として同種のフェロモンだけに反応を示す高選択性、そしてきわめて希薄なフェロモンによって行動が解発される高感度性の2点があげられる。

Bombyx1s.jpg

図1 ボンビコールによるオスのカイコガのメスへの定位

昆虫の嗅覚受容

昆虫は頭部に付属する一対の触角により環境中の匂いやフェロモンを検出する。触角上には感覚子と呼ばれる多数の突起状の感覚器が存在している。このうち匂いの受容器としてはたらく嗅感覚子は、クチクラ上に多数の嗅孔と呼ばれる10-数10nmの微小の穴をもつ。嗅感覚子の基部には通常複数の嗅覚受容細胞の細胞体があり、匂い受容部位である樹状突起を感覚子内へ、軸索を触角葉とよばれる嗅覚一次中枢へ伸ばしている(図2C)。気中の匂い分子は触角上の嗅感覚子のクチクラへの吸着、拡散を経て、嗅孔を通り感覚子内部へと入る。感覚子内はリンパ液(感覚子リンパ)で満たされているため、難水溶性の匂い分子は、そのままでは樹状突起へと到達できない。そのため匂い分子は、感覚子リンパ中に高濃度で存在する可溶性タンパク質であるフェロモン結合タンパク質または匂い結合タンパク質と結合することで可溶化され、樹状突起膜上に発現する嗅覚受容体へと輸送されると考えられている。匂い分子が受容細胞の樹状突起膜上に発現する嗅覚受容体と結合すると、受容細胞の脱分極が引き起こされ、活動電位が発生し匂い受容シグナルが触角葉へ伝えられる。

カイコガの性フェロモン受容

フェロモン受容器

オスカイコガの触角上には約25,000本の嗅感覚子があり、それらは外部形態から少なくとも4つのタイプ(長い毛状感覚子、毛状感覚子、錘状感覚子、窩状感覚子)に分類される(図2A, B)。これらのうち、約75%は長い毛状感覚子である。オスの長い毛状感覚子は性フェロモンの受容に特化しており、内部にある2つの嗅覚受容細胞は、それぞれボンビコールとボンビカールに特異的に反応を示す(以下それぞれボンビコール受容細胞、ボンビカール受容細胞と呼ぶ (図2C)。なお、それ以外のタイプの嗅感覚子は植物などに由来するいわゆる一般臭(種特異的なフェロモンではない匂い)の匂いの受容器としてはたらく。

ボンビコール受容細胞は高い感度を示し、わずか1分子のボンビコールの受容で電気信号を発生すると計算されている。同時に、ボンビコール受容細胞は高い選択性を示し、通常の濃度ではボンビコール以外の物質には反応しない。

ファイル:Bombyx2.jpg 図2

フェロモン受容の分子機構

 2項で述べたように、匂いは受容細胞の樹状突起膜上に発現する嗅覚受容体によって検出される。フェロモン受容体は昆虫の嗅覚受容体ファミリーに属し、嗅覚受容体共受容体と複合体を形成し、フェロモン受容によって開くイオンチャネルを形成する。カイコガではBmOR1、BmOR3と名付けられた2種類のフェロモン受容体が報告されている。これらの受容体はそれぞれボンビコールとボンビカールに対して特異的に反応を示し、長い毛状感覚子内の2つのフェロモン受容細胞で相互排他的に発現している。そのため、ボンビコールとボンビカール受容細胞で観察される高選択性はこれらの受容体の分子認識によって達成されていると考えられている。なお選択性については、フェロモン受容体の特性によって説明されるが、高感度性を決定する分子レベルでの仕組みはまだ明らかにされておらず、今後の課題の一つである。

フェロモン受容―匂い源探索行動

 受容細胞で検出されたボンビコールの情報は嗅覚一次中枢である触角葉へと伝達される。触角葉は糸球体と呼ばれる球状の構造がぶどうの房のように連なった構造をしており、それぞれの糸球体が匂い情報処理のユニットである。ガ類オスの触角葉には、性フェロモンの情報処理に特化した大糸球体と呼ばれる肥大化した糸球体がある。カイコガでは、受容細胞で識別されたボンビコールとボンビカールの情報は大糸球体の異なる領域に伝達される。ボンビコールの情報は上位中枢でさらなる処理を経て、最終的に定型的な匂い源探索行動を解発する。 遺伝子工学的にボンビコール受容細胞で他種の嗅覚受容体を導入したカイコガの解析から、オスカイコガの匂い源探索行動の発現にはボンビコール受容細胞の神経興奮が必要十分であることが示されている。すなわち、カイコガのオスがボンビコールだけに高選択的に探索行動を起こすのは、ボンビコール受容細胞で発現するBmOR1がボンビコールに特異的に反応をするためである。この特性を利用して、ボンビコール受容細胞に検出対象とする匂い物質の嗅覚受容体を導入することで、カイコガをボンビコール以外の特定の匂いを探知するセンサとして利用する試みが進められている。


櫻井健志 東京大学先端科学技術研究センター