昆虫の睡眠の分子神経メカニズム

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我々は生涯の3分の1近くの時間を睡眠に費やしている。それにもかかわらず,睡眠がどのようにして制御されているのか,そもそもなぜ睡眠を取らなければいけないのか,まだよく分かっていない点が多い。睡眠剥奪状態における記憶学習効率の低下などの観察から,認知機能における睡眠の重要性は明らかのように見える。一方,分子神経メカニズムの観点から睡眠の機能を説明することは出来ていない。このため,睡眠の意義については本質的には未知である。睡眠は,ヒトに限らず動物種一般に広く確認されている。驚くべきことに,多くの昆虫種においても睡眠様行動が報告されている。しかも,認知機能における睡眠不足の影響さえも報告されているのである。例えば,ミツバチにおいて,夜間の睡眠剥奪を実施すると,ダンスの正確性が低下し,結果として巣への帰着率が低下することなどが報告されている。本記事では,昆虫の睡眠について最新の研究の成果を紹介したい。

昆虫の睡眠の定義

そもそも睡眠の定義は何であろうか?我々ヒトの睡眠は,レム睡眠やノンレム睡眠と言った脳波の特徴だけでなく,「一定時間動かない」という行動指標によっても定義されている。実際に,フィットビットの睡眠スコア計算やアップルウォッチの睡眠計測アプリでは脳波の情報は用いず,行動指標のみであるが,それでも比較的,正確な睡眠行動の分析が可能である。昆虫の睡眠においても同様の行動指標が適用されている。例えば,ショウジョウバエにおいては,5分以上の不動が睡眠と定義されている。ミツバチ,ガ,蚊,ゴキブリなど,様々な昆虫種も同様である。一部の種では,睡眠に伴う不動に加え,脚や触角の“脱力”も報告されている。無論,単なる不動と睡眠は異なるわけだが,最近の研究により,昆虫の睡眠様の行動指標は,我々人間も含めた哺乳類の睡眠医学的な基準が適用可能であることが分かってきた。すなわち,「外的刺激に対する反応性の低下」,一定の睡眠量と質を保とうとする「恒常性機構」,昼夜の「周期的な睡眠‐覚醒リズム」などが昆虫にも存在し,これらの指標に基づきその睡眠量や質を計測できる。またカフェインによる覚醒効果が確認されているなど,我々とも共通する分子神経基盤がその背景にある可能性は高い。

昆虫の睡眠の神経基盤

哺乳類の脳において,体内時計リズムは,概日時計中枢の視交叉上核によって制御されている。視交叉上核の構成神経は,視床下部を構成する神経核の1つである室傍下核へ投射し,さらに大脳基底核,脳幹などに散在する覚醒神経回路に働きかけることで睡眠を制御している。近年の研究により,昆虫脳にも一連の時計ニューロン群が存在することが分かってきた。哺乳類の視交叉上核に相当するこれらの時計ニューロン群について,ショウジョウバエだけでなく他の昆虫種でも詳細な細胞タイプ同定が進んでいる。概日リズムは時計遺伝子の24時間周期の変動によって形成される。2種類の時計遺伝子(ショウジョウバエではClockとCycle,哺乳類ではClockとBMAL1)が別の2種類の時計遺伝子(ショウジョウバエではPeriodとTimeless,哺乳類ではPeriodとCry)の転写を活性化し,活性化されたそれらの時計遺伝子は逆に大元の時計遺伝子の転写抑制因子として機能することから,公園の遊具のシーソーの上下運動のような転写活性と転写抑制のバランスの変動が生まれる。このような時計遺伝子の振動は,時計遺伝子の出力分子によって時計ニューロンの膜興奮性に反映されることで,時計ニューロンの膜興奮性自体にも24時間周期の変動が生まれる。時計ニューロンの出力先としては,pars intercerebralis インスリン分泌細胞群,睡眠のエフェクター細胞として知られるdFB細胞を含む中心複合体,記憶学習に重要なキノコ体などが知られている。ショウジョウバエにおいてキノコ体への時計ニューロンの神経入力が長期記憶の定着に必須であるという最近の興味深い報告があることから,昼夜規則正しい生活を心がけることが我々の脳のパフォーマンスにも重要なのかもしれない。時計ニューロンから中心複合体への神経経路は,ショウジョウバエにおいて睡眠の恒常性を制御しており,体内時計リズムと恒常性の両側面の情報が統合される場であることが示唆されている。また,ショウジョウバエの中心複合体ではノンレム睡眠時の脳波様の特異的な周波数帯域を有する局所電場電位が観測されていることから,昆虫の睡眠にもノンレム睡眠やレム睡眠などの異なる睡眠状態の存在が示唆されている。

昆虫の睡眠の分子基盤

睡眠制御に関わる遺伝子として最初に同定されたのは,電位依存性カリウムチャネルサブユニットをコードしているShakerとHyperkineticであり,ショウジョウバエの突然変異体から発見された。ショウジョウバエの1日の睡眠時間は8~10時間ほどであるが,ShakerやHyperkineticの変異体ショウジョウバエは2~4時間ほどしか眠らないが,これはショウジョウバエの覚醒促進回路の膜興奮性が上昇することによって起こるものことが分かっている。これまでに見つかっている睡眠制御に関わる遺伝子の網羅的な紹介はここでは割愛するが,最近になって同定された睡眠促進遺伝子であるNemuri遺伝子と,概日時計リズムの出力分子として睡眠制御に関わるWake遺伝子だけ抜粋して紹介する。Nemuri遺伝子は,ショウジョウバエの中枢神経の特定のニューロン群から放出される抗菌ペプチドをコードしていることから免疫機能に関与することが示唆されている点が興味深い。Nemuri遺伝子により睡眠が促進され,睡眠中に抗菌ペプチドが放出されることで,感染症に対する保護作用が得られているとすれば,カフェインを取って無理に睡眠時間を削ると,免疫機能が低下し病気になりやすくなるのかもしれない。Wake遺伝子は,睡眠特異的な時計遺伝子の出力分子として初めて同定された足場タンパク質であり,様々な分子と結合して概日リズム依存的に入眠潜時や睡眠の質をコントロールすることが報告されている。Wake遺伝子の入眠潜時のコントロールは,時計ニューロンにおいて時計遺伝子依存的に発現するWAKEがGABAA受容体の膜移行を促進することで得られることが報告されている。また,カルシウム活性化型電位依存性カリウムチャネル結合蛋白質であるSLOBと,Na+/K+-ATPアーゼβサブユニットの膜移行をWAKEが促進することで,時計ニューロンの自発性発火パターンが制御されることが報告されている。このような時計ニューロンの自発性発火パターンの変化はNMDA様受容体依存的なシナプス可塑性を誘導しPIニューロンの興奮性に作用することによりショウジョウバエの睡眠の質を制御することが示唆されている(図1)。

Tabuchi Fig1.jpg

図1 概日時計依存的な睡眠の質を制御する神経機構

まとめと展望

昆虫が眠るという事実は,一般的にはほとんど知られてはいない。しかし,多くの昆虫種で行動学的指標を用いた睡眠メカニズムの研究が進行している。特にショウジョウバエの発達した分子遺伝学的手法を用い,数多くの睡眠遺伝子が同定されつつある。これらの多くは哺乳類にも相同遺伝子があり,例えば,不眠症の治療標的として注目されつつある。また,ショウジョウバエの中心複合体においては哺乳類のノンレム睡眠時の脳波様の局所電場電位が睡眠中に観測されている。昆虫の睡眠の分子神経基盤は,昆虫種間のみならず哺乳類の睡眠とも知識を共有できるような普遍的なシステムである可能性が高い。一方,なぜ睡眠不足が脳のパフォーマンスに影響するのか,睡眠の量や睡眠の質が脳の機能状態にどのように作用しているのかということについては哺乳類も含めて未知なことが多い。今後,構成細胞数の少ない昆虫の微小脳をモデルとして用いることで,睡眠の謎に迫ることができると期待される。

参考文献

  • 田渕理史, 並木重宏 神経回路の自発活動パターンとその機能的役割 比較生理生化学 36(2):100-111, 2019.
  • 田渕理史 睡眠の質は時計遺伝子に依存的な神経活動の発火パターンのゆらぎにより決まる ライフサイエンス新着論文レビュー http://first.lifesciencedb.jp/archives/18804
  • 水波誠 昆虫-驚異の微小脳 中央公論新社, 2006.