「昆虫の偏光コンパス」の版間の差分

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複眼には,天空からの偏光受容に特化した領域がある.これは複眼の背縁部に位置する個眼数列の領域で,dorsal rim area (DRA) と呼ばれる. DRAを塗りつぶすと個体のナビゲーション行動や偏光に対する定位行動が阻害され,この領域が偏光受容に関わることがわかる.この領域に含まれる視細胞には,1) ラブドメアの体積が大きく光に対する感度が高い,2) ラブドメアのねじれや微絨毛の配列の変動がなく偏光に対する感度が高い,3) 単色性であるといった特徴がある.さらに,DRAの個眼は,そのラブドームが直交に配列する2方向の微絨毛のみで構成されることから,あたかも直交する2枚の偏光フィルターを備えたようになっており,これにより偏光のe-ベクトル方向を検出できると考えられている.
 
複眼には,天空からの偏光受容に特化した領域がある.これは複眼の背縁部に位置する個眼数列の領域で,dorsal rim area (DRA) と呼ばれる. DRAを塗りつぶすと個体のナビゲーション行動や偏光に対する定位行動が阻害され,この領域が偏光受容に関わることがわかる.この領域に含まれる視細胞には,1) ラブドメアの体積が大きく光に対する感度が高い,2) ラブドメアのねじれや微絨毛の配列の変動がなく偏光に対する感度が高い,3) 単色性であるといった特徴がある.さらに,DRAの個眼は,そのラブドームが直交に配列する2方向の微絨毛のみで構成されることから,あたかも直交する2枚の偏光フィルターを備えたようになっており,これにより偏光のe-ベクトル方向を検出できると考えられている.
  
=== 偏光視の中枢メカニズム ===
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== 偏光視の中枢メカニズム ==
視葉の偏光一次介在ニューロン
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=== 視葉の偏光一次介在ニューロン ===
 
DRAの視細胞は視覚の一次中枢である視葉において,視葉板(lamina)と視髄(medulla)に投射する.コオロギの視髄にある偏光感受性ニューロン(POL1ニューロン)は,左右の視髄をつなぐような形態をしており,同側の視髄の背側に入力部位を,反対側の視髄全体に出力部位を持っている.回転するe-ベクトルの偏光刺激を与えると,POL1ニューロンは特定のe-ベクトル方向の偏光に対して強い興奮性の応答を示し,これと90º異なるe-ベクトル方向の偏光に対しては抑制性の応答を示す(polarization opponency).このような応答特性は,先に述べたDRAの2方向の微絨毛から興奮性と抑制性の入力を同時に受けることにより形成されると考えられている.POL1ニューロンの偏光感度は非常に高く,偏光度がわずか7%の刺激に対しても明確なe-ベクトル方向の選択性を示す.POL1ニューロンに見られるこのような高い偏光感受性は,昆虫の偏光視のシステムが曇天などの悪条件下においても十分に機能し得ることを示唆している.またPOL1ニューロンは,応答する偏光のe-ベクトル方向によって3タイプに分類されることが明らかとなっており,このことから,昆虫の偏光知覚はヒトの色覚のように3タイプの神経細胞の応答比率によって実現されているのではないかという仮説が提唱されている.
 
DRAの視細胞は視覚の一次中枢である視葉において,視葉板(lamina)と視髄(medulla)に投射する.コオロギの視髄にある偏光感受性ニューロン(POL1ニューロン)は,左右の視髄をつなぐような形態をしており,同側の視髄の背側に入力部位を,反対側の視髄全体に出力部位を持っている.回転するe-ベクトルの偏光刺激を与えると,POL1ニューロンは特定のe-ベクトル方向の偏光に対して強い興奮性の応答を示し,これと90º異なるe-ベクトル方向の偏光に対しては抑制性の応答を示す(polarization opponency).このような応答特性は,先に述べたDRAの2方向の微絨毛から興奮性と抑制性の入力を同時に受けることにより形成されると考えられている.POL1ニューロンの偏光感度は非常に高く,偏光度がわずか7%の刺激に対しても明確なe-ベクトル方向の選択性を示す.POL1ニューロンに見られるこのような高い偏光感受性は,昆虫の偏光視のシステムが曇天などの悪条件下においても十分に機能し得ることを示唆している.またPOL1ニューロンは,応答する偏光のe-ベクトル方向によって3タイプに分類されることが明らかとなっており,このことから,昆虫の偏光知覚はヒトの色覚のように3タイプの神経細胞の応答比率によって実現されているのではないかという仮説が提唱されている.
  

2019年1月9日 (水) 17:09時点における最新版

動物は場所記憶に基づいたナビゲーションを行う.昆虫も採餌や帰巣の際に非常に優れたナビゲーション能力を示す.ナビゲーション行動を遂行するためには,自らの移動した方向と距離を正しく知覚することが必要である.その中でも,天空の偏光パターンによる方向検出は多くの昆虫で普遍的に見られ,これまでにその仕組みに関する研究が盛んにすすめられてきた.ここでは,昆虫のナビゲーションで利用される偏光視の神経機構について解説する.

偏光とは

光は電磁波であり,自然光にはあらゆる方向に振動する光が含まれている.これに対して,波の振動の方向が特定の方向に偏っている光を偏光といい,中でも光の振動面(偏光面ともいう)が一定であるような場合,これを直線偏光という.直線偏光の向きは,光の電場の向き(e-ベクトル)によって規定する.

天空の偏光パターン

太陽から地球に降り注ぐ光は,大気中に含まれる分子にぶつかって散乱する.この時,散乱光はRayleigh散乱の法則に従って部分的に偏光し,天空には偏光のパターンが作り出される(図1).天空の偏光パターンは,たとえ太陽が雲や障害物で観察者から見えなくても常に空に存在するため,太陽そのものをコンパスとして用いるよりも汎用性が高い.例えば,天頂部のe-ベクトル方向に対して平行になるように体軸が向いている時は自分の右側もしくは左側に太陽があり,垂直になるように体軸が向いている時は自分の前方もしくは後方に太陽があることになる.つまり,空のe-ベクトルの方向を一部見るだけで,太陽の方向が推定できるのである.一方,偏光パターンは太陽の位置すなわち時刻によって変化するため,長時間に渡るナビゲーションの際には,コンパス情報の時間変化を何らかの形で補償しなくてはならない.実際,ミツバチやアリでは太陽の移動を補償するナビゲーション行動が確認されている.

Sakura02.jpg

図1 天空の偏光パターン.青線の方向が偏光のe-ベクトル方向を,太さが偏光の強さを表している.

偏光視の感覚メカニズム

視細胞による偏光検出

昆虫の複眼に含まれるラブドーム型視細胞は,その構造上偏光の振動面を検出できる.視細胞には,規則正しく一方向に配列した細い管状の微絨毛が存在し,視物質はこの微絨毛の膜に含まれている.視物質分子の発色団であるレチナール類は双極子であり,分子の長軸に平行なe-ベクトルの光を最大に,垂直なe-ベクトルの光を最小に吸収する性質を持っている.従って,管状の微絨毛では,その長軸に平行なe-ベクトルの光が最大に,垂直なe-ベクトルの光が最小に吸収される.結果として,視細胞は偏光フィルターのような特性を持つことになる.なお,我々ヒトの網膜にある繊毛型視細胞では,視物質は平たい円盤状の膜(円盤膜)に含まれており,全てのe-ベクトル方向の光を均等に吸収する.したがって,ヒトは偏光の振動面を検出することができない.

複眼の偏光受容部位

複眼には,天空からの偏光受容に特化した領域がある.これは複眼の背縁部に位置する個眼数列の領域で,dorsal rim area (DRA) と呼ばれる. DRAを塗りつぶすと個体のナビゲーション行動や偏光に対する定位行動が阻害され,この領域が偏光受容に関わることがわかる.この領域に含まれる視細胞には,1) ラブドメアの体積が大きく光に対する感度が高い,2) ラブドメアのねじれや微絨毛の配列の変動がなく偏光に対する感度が高い,3) 単色性であるといった特徴がある.さらに,DRAの個眼は,そのラブドームが直交に配列する2方向の微絨毛のみで構成されることから,あたかも直交する2枚の偏光フィルターを備えたようになっており,これにより偏光のe-ベクトル方向を検出できると考えられている.

偏光視の中枢メカニズム

視葉の偏光一次介在ニューロン

DRAの視細胞は視覚の一次中枢である視葉において,視葉板(lamina)と視髄(medulla)に投射する.コオロギの視髄にある偏光感受性ニューロン(POL1ニューロン)は,左右の視髄をつなぐような形態をしており,同側の視髄の背側に入力部位を,反対側の視髄全体に出力部位を持っている.回転するe-ベクトルの偏光刺激を与えると,POL1ニューロンは特定のe-ベクトル方向の偏光に対して強い興奮性の応答を示し,これと90º異なるe-ベクトル方向の偏光に対しては抑制性の応答を示す(polarization opponency).このような応答特性は,先に述べたDRAの2方向の微絨毛から興奮性と抑制性の入力を同時に受けることにより形成されると考えられている.POL1ニューロンの偏光感度は非常に高く,偏光度がわずか7%の刺激に対しても明確なe-ベクトル方向の選択性を示す.POL1ニューロンに見られるこのような高い偏光感受性は,昆虫の偏光視のシステムが曇天などの悪条件下においても十分に機能し得ることを示唆している.またPOL1ニューロンは,応答する偏光のe-ベクトル方向によって3タイプに分類されることが明らかとなっており,このことから,昆虫の偏光知覚はヒトの色覚のように3タイプの神経細胞の応答比率によって実現されているのではないかという仮説が提唱されている.

体内コンパスとしての中心複合体

昆虫脳の高次中枢の一つである中心複合体では,様々な偏光感受性ニューロンが同定されており,偏光視の最高次中枢であると考えられている.コオロギでは,上述のように視葉で3タイプのPOL1ニューロンによって符号化された情報が,中心体下部のニューロンではより細分化されており,偏光のe-ベクトル方向をリアルタイムでモニターしていると考えられる。また,前大脳橋では,ニューロンの応答するe-ベクトル方向が地図上に並んでおり,このことからも中心複合体が体内コンパスとしての役割を持つことが強く示唆されている.ハチでは,移動距離の指標となるオプティックフローの情報が中心複合体に入力することも明らかとなっていることから,この領域でナビゲーションに必要な移動方向と移動距離の情報が統合されるのであろう.

まとめと展望

昆虫が偏光を利用して方向検出をするという事実は,古くより多くの種で知られており,DRAの構造や応答特性など,ナビゲーションに利用される偏光視の感覚機構については詳細な研究がすすめられてきた.また,DRAで検出された偏光のe-ベクトル情報が,その後中枢でどのように処理され,実際の偏光知覚が実現されているのかについても,多くの昆虫種を使って解明されつつある.これらの研究からわかってきたことは,偏光視の中枢機構が,偏光をナビゲーションに利用する多くの昆虫で普遍的なシステムとして保存されているということである.しかしその一方で,脳内の偏光感受性ニューロンが実際にナビゲーションを制御するメカニズムに関しては,依然として未解明な点が多い.時刻とともに変化する偏光パターンを時間補償する機構や,経路積算に必須な距離と方向の情報を統合する機構,場所記憶に基づく行動制御の機構など,まだまだ疑問は尽きない.今後,ナビゲーション行動の発現と神経応答との関係性を明らかにしていくことで,これらの疑問に対する答えが見つかっていくことだろう.

参考文献

  • Wehner, R. & Labhart, T. Polarisation vision. In Invertebrate vision (Ed. Warrant, E. & Nilsson D.-E.), pp. 291-348, Cambridge University Press, 2006.
  • 佐倉緑 昆虫の偏光コンパスの神経機構. 比較生理生化学32, 195-204, 2015.
  • Heinze, S. Unraveling the neural basis of insect navigation. Current Opinion in Insect Science 24, 58-67, 2017.

佐倉緑(神戸大学大学院理学研究科)