「闘争行動:コオロギの場合」の版間の差分

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青沼仁志
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[[青沼仁志]]

2017年4月17日 (月) 18:45時点における最新版


研究対象としての昆虫の脳

 生物の多様性は生物の進化を反映している。動物は進化の過程で、環境への適応機構として脳神経系を獲得し、複雑に変化する環境に適した行動をとることができるようになった。 動物は、ひとつの適応機構として群や社会を作ることがある。その中で、個体が複数集まると個体間に相互作用が生じ行動の選択が起こる。

 脳は動物の運動や行動を制御する中枢として機能している。適応的行動選択の神経機構を明らかにするには、脳における制御機構について細胞レベルや神経回路レベルで明らかにする必要がある。神経作用物質とは、神経伝達物質・修飾物質そして神経ホルモンなど、神経系の働きに作用する物質の総称である。神経作用物質が脳のどの領域や細胞でどのようなタイミングで働くのかを知ることで脳における行動の制御機構の一端を理解することができる。

 昆虫は、身体が脊椎動物に比べ小さく、微小な脳神経系は、わずか100万個程の細胞からなる。にもかかわらず、優れた感覚受容機構、情報処理機構、運動発現機構をもち環境に適応している。脊椎動物の脳がおよそ1兆個の細胞から構成されていることを考えると、昆虫の脳は遙かに少ない細胞から構成されていることがわかる。脳を構成する個々の細胞は、生理学的にも形態学的にも同定が可能である。細胞の同定可能性は、行動制御の神経機構を明らかにする上で大きな利点で、この様な脳をもつ昆虫を研究対象として扱うことで、特定の行動制御機構について特定の細胞の機能と関連づけて議論することもできる。

 昆虫の神経系は、梯子状神経系で無脊椎動物の中ではもっとも複雑化した集中神経系である。昆虫の頭部にある脳神経節が一般に脳と呼ばれ、前大脳、中大脳、後大脳の3つの領域に分けられる。それぞれの領域にはニューロパイルと呼ばれる内部構造があり機能的な役割を持ちながら互いに連絡している。前大脳には、キノコ体、中心体、前大脳側葉、副側葉などのニューロパイルがある。また、複眼からの視覚情報処理にかかわる視葉も前大脳に含まれる。中大脳の領域には触角葉と背側葉がある。嗅覚、味覚などの化学受容器、機械感覚、温度感覚、湿度感覚などの受容器が配置された触角からの感覚情報の信号は、触角神経により中大脳のニューロパイルに運ばれる。特に、触角葉には触角神経の終末と触角葉ニューロンの突起により構成された糸球体が存在する。触角葉の糸球体構造は哺乳類の嗅球糸球体と非常によく似ているため、昆虫の化学情報処理機構は脊椎動物の匂い情報処理の研究のモデル系としてもちいられている。匂いの情報は一次中枢野である触角葉で処理された後、投射ニューロンによりさらに上位の中枢であるキノコ体や側葉へと運ばれる。つまり、前大脳はより最高次中枢として機能し、中大脳、後大脳とそれに続く食道下神経節や胸部神経節そして腹部神経節などを支配している。


コオロギの闘争行動

 昆虫には、発音や化学物質を用いてコミュニケーションをするものが多い。たとえば、秋の夜長に耳にするコオロギの鳴き声は、オスのコオロギがメスを呼ぶための発音行動である。その鳴き声に引かれてメスがやってくると、オスは求愛をはじめ、メスに受け入れられたら交尾が可能となる。コオロギは近づいてきた他個体の性別を知る手がかりとして相手の体表を覆うワックスに含まれる化学物質を使っている。この化学物質は主に炭化水素から構成された成分で、オスのものであれば闘争行動、メスのものであれば求愛行動を解発する(発現させる)ことから、この体表化学物質を体表フェロモンとも呼んでいる。オスの体表フェロモンは、同種のオスに対して闘争行動を解発する。オス同士は、お互いの存在に気づくと1)互いに触角を激しく打ち振るわせ、2)脚を踏ん張り前傾姿勢で威嚇を始め、3)どちらも引かなければ大顎を開き相手に突進し、4)噛みつき合いの闘争を始める、5)どちらかが退くことで決着が着き、勝者のオスは闘争歌を発しながら敗者を追い払う。このコオロギの闘争は始まってから数秒程度で終決してしまう行動である。


コオロギの攻撃性と社会的経験

 昆虫のフェロモン行動は本能行動、すなわち生得的な行動のひとつである。フェロモン行動は一般的に“Hard-wired”と呼ばれ、特定のフェロモン刺激に対して常に同じ行動のOn/Offはあるが行動の可塑性はないとされてきた。ところが最近、昆虫のフェロモン行動の中でも、以前の経験により引き続き起こる行動が修飾されることが明らかになってきた。そのひとつに体表フェロモンにより解発される、オスのコオロギ同士の闘争行動があげられる。闘争の結果、2匹のオスの間には優劣関係が形成される。闘争に負けたオスは、負けてから1時間以上、再び別のオスに遭遇し相手の体表フェロモンを受容しても闘争行動は示さず、相手を回避(忌避)するようになる。これは、経験学習のひとつと考えることができる。


コオロギの闘争経験後にみられる行動選択の脳内機構

 闘争に負けたオスは、闘争終結後1時間以上もの間、他のオスに対して忌避行動を示す。この行動の選択機構には、神経修飾物質の一酸化窒素(NO)が関与することがわかってきた。神経修飾物質とは、複数のシナプスに作用して情報伝達を調節する物質である。神経伝達物質とは、神経細胞のシナプス終末から分泌され、シナプス後細胞に信号を伝える化学物質である。具体的にはアセチルコリン、グルタミン酸、GABAなどその他多くの化学物質が知られている。

 NOは細胞内の酵素の働きでアルギニンというアミノ酸から合成される生理活性物質である。生体内でNOは不対電子をもつ分子(フリーラジカル)として存在するので化学的な活性に富み、周囲に酸素や金属イオンがあれば速やかに反応して効力を失う。NOは生体内で寿命が数秒から十数秒程度で、およそ100-200 µm/secの速度で細胞膜を自由に透過しながら3次元的に拡散すると考えられている。 NOの主要な標的は可溶性グアニル酸シクラーゼ(sGC)と呼ばれるヘムを含む酵素タンパク質である。拡散したNOが標的細胞に到達すると、sGCが活性化されGTPからcGMPの合成が促される。cGMPはセカンドメッセンジャーとして働き、プロテインキナーゼG (PKG)を活性化し、下流の標的となるタンパク質をリン酸化する。また、cGMPの標的には、cyclic-nucleotide-gated channels (CNGCs)やcyclic-nucleotide-phosphodiesterase (PDE)等が知られている。このようにNOシグナル系により細胞の生理状態が変化し、シナプスにおける伝達効率が制御されると考えられている。また、NOは、sGC/cGMP系を介さず、蛋白質のS-nitrosylationにより直接的にイオンチャンネルに作用することも知られている。昆虫の脳では、嗅覚情報処理の中枢である触角葉で、NOがcGMPを介さずに働き、細胞の電気的な活動を修飾することで化学感情報処理に関与することが示唆されている。

 闘争経験による行動選択にかかわるNOの働きを調べるために、コオロギの脳内のNOやcGMPの産生を薬理学的に操作して行動変化を観察する。2匹のオスのコオロギを闘争させる15分前に、予めNO合成酵素の働きを阻害する試薬L-NAMEを頭部に注入し、コオロギが落ち着いたところで2匹を同時に行動観察用のアリーナに移すと、両者は即座に闘争を始める。勝敗がついたら、それぞれ別の容器で一定時間隔離してから再び元のアリーナに戻すと、1回目で敗者になった雄でも再び攻撃を仕掛けるようになる。似たような結果は、sGCの活性を阻害しても現れることから、脳内のNO/cGMPシグナル伝達系が闘争経験後の行動選択の神経機構に関与することが示唆されている。ところで、コオロギの攻撃性には体液中の生体アミンであるオクトパミン(OA)がホルモンとして関与していることも知られている。ホルモンとは、特定の器官から血液中に放出され、血流にのって標的器官に運ばれて特定の機能を引き起こす物質である。闘争の直後に体液中のOA量を計測すると、闘争前に比べて増加することから、OAは、攻撃性に関与すると考えられている。一方、脳内の生体アミンの濃度は闘争直後、逆に減少することがわかった。組織中の生体アミンは高速液体クロマトグラフィー法により解析できる。脳内のNO/cGMPシグナル系と生体アミンの系がどの様な関係にあるのか調べるために、NO供与剤を使って脳を刺激すると、OAやドーパミン(DA)などの生体アミンの脳内レベルが減少することがわかってきた。神経系において生体アミンは神経修飾物質や神経ホルモンとして機能していることから、NOは、OAやDAなどの生体アミンの働きを調節することが示唆されている。


青沼仁志